「霞流さん、わた、し」
混乱する頭をひっくり返して何か引き止める口実はないものかと必死に考える。そんな焦る瞳に、慎二はグニャリと口元を歪めた。
「何だ? お楽しみをブチ壊しにされたのがそんなに癪か?」
「え?」
全身に鳥肌が立つ。
「心配するな。俺は言うべきコトは言った。この場にはもう用は無い。すぐに去る」
「あ、あの」
「続きならごゆっくりどうぞ」
「ちがっ、霞流さんっ」
揺れる金糸に向かって必死に叫ぶ。そんな美鶴を嘲笑うかのように、肩越しに振り返る。
「ハートのエースなど、この世には存在しない」
若葉を伴って去っていく金糸は、散り舞う緑を纏って、爽やかすぎるほどの色気を漂わせている。その、あまりにも清々しい後ろ姿が、直前までの侮蔑的な態度と相反しているがゆえに、一層清らかに見えた。
動けない。
残り香が品良く鼻先を擽る。
「狂ってる」
聡の声にも、美鶴はただ黙っていた。
これが、霞流さんのやり方なんだ。
これまでに何人もの女性が泣かされてきたと、小窪智論から聞かされていた。ユンミと共謀してからかうにはあまりにも質が悪すぎると思われるような悪戯にも振り回された。売春を強要されそうにもなった。その度に驚愕し、それでも負けてはいけないと言いつづけてきた。
彼のやり方を、ある程度は理解できたと思っていた。
まだだ。
生唾を飲む。
霞流さんは、手を緩めない。とことん、私を追い詰める気だ。
どうして?
自分を嘲笑う唐渓生の歪んだ唇が脳裏に浮かぶ。明日から、あの嘲笑の嵐の中で生活しなければならないのかと思うと、悪寒が走る。
行きたくないと、思いたくなってしまう。もう学校へなど、行きたくはない。
どうして、どうしてこんな事になってしまったのだ。
涼木魁流と対峙して、思いがけない姿を目にした。
あんな姿を見せてしまったから? 己の内に残る本当の霞流さんを、消したいから? 否定したいから?
ガクガクと膝が震える。腰に奇妙な鈍痛を感じ、気を緩めたらストンッと座り込んでしまいそうだ。だが必死に耐える。ここで崩れてはいけない。ここで座ってしまったら、負けてしまうような気がする。
「美鶴、あんな男はやめろ」
美鶴は唇を噛み締めた。
「負けないよ」
小さく呟く。
「私、負けない」
小さいが、ハッキリと口にし、そうして振り返って机の上の鞄を掴んだ。
サボって駅舎に来てはみたものの、勉強などする気にはなれなかった。教科書もノートも、筆記用具一つさえも出してはいない。美鶴の恋心をバラしたのが霞流慎二だとわかった今、やはり勉強などをする気にはなれない。
「美鶴」
呼びかけ、腕を伸ばすその手を払いのける。
「帰る。出ろ」
「美鶴」
「出ろ」
こちらなど見ずに声だけで指示する。そんな相手に一瞬躊躇ったが、聡はそのまま外へ出た。
「帰るのか?」
鍵を掛ける美鶴は無言。
「家帰るなら送ってく」
「一人で帰れる」
「送る」
「ヤだ。来るな」
「待てよ」
「触るな。お前なんか信用できない」
肩に触れた指先から、ピリッと熱でも伝わったかのよう。美鶴は勢いよく払い飛ばした。
「触るなっ」
「美鶴」
「お前のせいで」
その先は怒りで言葉も出ない。
あんな、あんなところを、聡に抱き締められているところなんかを、よりにもよって霞流さんに。
見られた。
「顔も見たくないっ」
怒りでギリギリと歯を噛み締める相手。だがそんな視線を、聡は真正面から受け止める。そうして、やおらふてぶてしい態度で少し顎をあげた。
「そんなにヤツが好きか?」
俺が、俺がこんなに想っているのに。
自分に向けられる怒りの炎が、逆に聡を挑発する。
上げた顎をゆっくりと傾け、その動きとは対照的な素早い動作で右手を伸ばした。逃れる隙など与えもせず、強引に肩を引き寄せる。瞠目する瞳を覗き込む。
「どうせだったら、キスしてるところでも見せつけてやればよかったな」
「最低っ」
自分を詰る掠れ声が、甘い吐息に聞こえるのはなぜだろう。唇を噛み締めて聡の胸を押し戻そうとする美鶴の手などそのままに左手で相手の顎を押さえる。
「なんだったら、今ここでしてやってもいいんだぜ」
項で結んだ髪の毛が一房零れた。振り子のように聡の顔の前で揺れたそれは、若葉の風に乗ってフワリと舞い上がった。木々の間から漏れる午後の日差しを受けて、毛先が小さく瞬いた。
本当に触れ合いそうなほどの距離。
「やめろ、離せ」
「ヤダ」
「離せ、離れろっ」
「美鶴」
名前を呼ぶと、切なさが沁みる。
「やめろ、聡っ!」
俺の名前を呼んでいる。でもきっと、俺が感じてるような胸の苦しさなんて、コイツは微塵も感じてはいないんだろうな。
なんで?
「聡、いい加減にしろ」
本気で嫌がっている。
ムカつく。
怒りと欲情が聡を苛む。
構わない。だって俺は美鶴の事が好きなんだから。
顎を掴む指に力が入った。
「聡、やめて」
気付いた時には、聡の方から突き飛ばしていた。唖然とする美鶴。だが、それは聡とて同じ。
俺は。
一瞬前まで顎に触れていたはずの指先が、今は微かに震えている。耳に余韻を残すのは、遠い日の忌まわしい記憶。荒んだ家族の破れた思い出。
俺は、また。
視線を泳がせる。そんな相手に恐怖と怒りを投げ、美鶴は逃げるように背を向ける。走り出そうとする姿に腕を伸ばしたのは反射だ。
「待て」
「離せ」
「行くな」
「やめろ、家に帰るんだ」
「だから送ってくって」
「お前は信用できない」
「信用できないのはお前の方だろっ!」
視線が交差する。
本当に、まったく信用していない瞳。
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